車椅子に乗った美人を見た。
電動ではないシンプルな車椅子をシャッ…シャッ…と漕ぎ進めるその手は指先まですっきりと伸びていて、一漕ぎする度に艶々のセミロングの髪がふわっと広がって、何だかとってもエレガント。 コンビニの前に来た彼女は、チラッと店内を覗くと、店とは反対側の手で車椅子を止めて90度信地旋回。 店に背を向けて、そのままちょっとバック。 どうやら、小さな段差を乗り越えるときは後輪から、らしい。 段差を越えると、今度は超信地旋回でクルリと反転して、店の中に入っていった。 その動きがまるでタンゴのようで、ちょっと見とれてしまったのだった。
ま、美人だというだけで直ちに何割り増しかされる見た目の印象が、そのまま彼女の現実ではないんだろうけどね。 炎天下に座りっぱなしの下半身は、汗臭く蒸れてるのかもしれない。 一見優雅に見える手も、その手のひらはタコでがさがさなのかもしれない。
近頃は、歩道と店舗との境目にはほとんど段差を見かけなくなったと思っていたのだが、それは俺が歩くことを基準に考えているからで、車椅子では意識せざるをえない段差は結構残っているのかもしれないな。 健常者基準のバリアフリー。 考えてみれば、コンビニに入る段差をなくしたところで、店内の棚の商品展開は水平方向。 高いところにある商品は高いところにしかない。 高いところに手の届かない人もいることだし、背の低い人から高い人まで皆が楽に取れるためには、同じような商品を縦方向に並べるべきか。
で、 「ああいった人と一緒に暮らすのは、やっぱり大変だろうなぁ…」 なんてシミュレーションしているうちにふと気付いたのだが、俺は彼女を 「美人だけどハンディキャップがあるから、一緒に暮らす相手にあまり理想を持たず、俺ぐらいでも妥協するかもしれない」 なんて目で見ているのだな。 なんかもう駄目駄目。 その昔、高校生ぐらいだったか、可愛い女の子が視覚障碍者を演じてるのを、 「彼女の目が見えないと、彼女に吊り合わない自分の容姿に引け目を感じなくてすむからいいかな」 なんて考えながら見ている自分に気付いて自己嫌悪に陥ったことがある。 俺の心根は、その頃からずっと腐ったままな訳か。 がっくり。