遠い昔、音楽の時間に合唱で 「翼をください」 を歌ったのを覚えている。 正直な話、合唱には身が入らなかった。 いい歌だとは思ったが。
いや本当にいい歌だとは思ったんだよね。 なんか綺麗で。 けどなあ…。
鳥のような翼というが、鳥の翼は手を捨てて得たものだ。 飛びたい人はたくさんいるだろうが、翼と手が引き換えだとしたら、一体どれだけの人が手を捨てるだろうか。 俺は多分手を取る。 飛びたいけど、手を捨ててまで翼を得ようとは思わない。 飛行手段としての翼は制約だらけだから。 人間が飛ぶためにはかなり大きな翼が必要になるし、大きさに反比例して運動性能は劣化するし、緊急回避とかほぼ無理だし、エネルギー消費は全く割に合わないし。
空に悲しみは無いのか。 まあきっと無いんだろう。 というか、悲しみなんてどこかの場所にある訳じゃない。 人の内にあるのだ。 悲しみの無い自由な空なんて思ってしまうのは、何か悲しいことがあって、その悲しみから逃れたいからだろう。 でも、どこに行っても自分の内の悲しみからは逃れられない。 仮に空を飛んだら、今度は悲しみの無い自由な宇宙に憧れることだろう。 そして、なぜ自分は翼を選んでしまったのかと、新たな悲しみを増やすのだ。
そんなことを考えていたら、合唱に身が入るはずなんて無いか。
せっかく思い出したのでYouTubeで検索してみたら、合唱の動画がたくさんあった。
今になって思うに、鳥のような翼を背中につけて物理法則を無視して自由に飛ぶとか、死後昇天中の図だよな。 悲しみの無い自由な空ってのも天国っぽいし、あれはひょっとして自殺願望の歌だったのか? まあ多分違うんだろうが、そうとも取れるものを先生の指導の下に子供が合唱してるってのが、いかにも教育って感じでいいね。
もう一つ、今になって思うのは、翼で空を飛んで自由を手に入れるのが、仕事して金を得るのと同じ構図じゃないかってこと。 きっと、一度飛んだらもうずっと飛び続けるしか無いのだ。
鳶。 地面に降りている姿を見るのは珍しい。 水浴びでもしに来たのだろうか。
たぶんミンミンゼミ。 元気なうちは人が見えただけで飛んで逃げるが、寿命が尽きる頃になると、触っても逃げなかったりする。