聖書の中にある 「ツァラト」 とは、もともとは癩病に代表されるような重い皮膚病の総称だったらしい。 当時はそれぞれの病気を判別することができなかったから、全部ひっくるめてそう呼んでいたってことなんだろう。 聖書が各言語に翻訳されていく中で、ツァラトは癩病と訳され、現在はそれが広まっているのだそうだ。 誤訳というよりは、安易な訳、言葉足らずという感じか。
近年、これを正しく 「重い皮膚病」 と訂正しようと運動している人がいるらしい。 癩病の人の感情を考慮してのこととか。 俺は、このツァラトがどんな文脈で出てくるのか知らない。 知らないが、わざわざ訂正しようとするぐらいだから、あまり良い方向では無いんだろうと想像する。 「癩病者は幸いである。 醜く恐ろしいと忌避される者にこそ、天国の門は開かれているのだから」 みたいな。
で、ツァラトの誤訳が訂正されて、 「癩病」 が 「重い皮膚病」 になったとしよう。 すると、癩病ではないが重い皮膚病だった人が、これによって、癩病の人が感じてきたと同じ嫌な気持ちを抱かされることになるのだな。
もちろん、癩病の人が、癩病限定のような誤訳を改めてほしいと言う事を否定しない。 そもそも誤訳なんだから訂正しようというのは正しいと思う。 しかし、その誤訳の訂正を推進する人が、それによって新たに被害(?)の枠に組み込まれる人のことを考えているのかどうか、それが気になる。
意地の悪い質問だとは思うが、癩病の人に訊いて見たい。 「癩病を重い皮膚病と訂正することで、これまであなたが感じていたと同じ嫌な気持ちを、癩病ではない重い皮膚病の人に感じさせることになります。 それでもあなたは、そのように書き換えたほうがいいと思いますか?」 と。
ところで、やるならこの際徹底的に誤訳を排せばいいのに。 マリアの処女懐胎とかさ。
その辺を考慮してか、原文のまま 「ツァラト」 と表記された聖書もあるんだそうだ。