推薦入学をすることになっていた学校に、教員が願書を出し忘れてしまい、推薦入学が出来なかった。 慌てて補講なんかで勉強して一般入試を受けたのだが、不合格になってしまった。
そんな、可哀想かつ間抜けなニュースに思うのだが、普通に受験したら不合格になる人を推薦することに何の意味があるのかね。 推薦入学なんてもう止めてしまえばいいのに。
しかしまあ、釣り合いは取れているのか。 生徒の願書を出し忘れる教師と、一般受験なら不合格になる推薦入学希望の生徒。 この教師にしてこの生徒。
と思ったけど、実はわざとなのかもしれないな、出し忘れ。 教師の方はかねてから推薦ってものに疑問を持っていたのだ。 で、 「いくら何でもこいつを推薦って無いだろ?」 みたいなレベルにまで落ちてしまった今回、とうとう我慢できずに、出し忘れってことにして首を賭けて問題提起したとか。 んー…、いや、ないか。
この際だから、ちょっと真面目に推薦入学ってものに反対しておこう。
推薦入学を、入学から卒業近くまでずっと継続して努力できるという能力に対する評価だとか、人柄込みだとか言う人がいる。
まずは人柄。
そもそも受験に人柄の評価が必要か? というところから疑問だが、それは置いておくとして。 この 「人柄」 って、ただ教師受けがいいだけなんじゃないかと思う。 もちろん本当に良くできた人もいるのだろうが、その区別が教師にできるのか。 そのいい例が、今回不合格になった人とその教師ではないか。 早くに合格が決まるから、その後に勉強を止めてしまって受験だと不合格になるまでに落ちてしまう人柄は、推薦できるものなのか。 それを見抜けなかった教師の推薦を、いったいどれだけ信用できるのか。
で、こっちが重要なんだけど、継続する力。
わざわざ別評価する必要があるのか? 学生生活の何年間かを通して好成績を収められるなら、普通に受験しても合格するだろう。 逆に、個別の試験では好成績なのに受験では成果を上げられないなら、それはそいつの学習成果の定着度に問題があるのであって、むしろ推薦できないのではないか。
受験というイベントは誰にも見えているもの。 その直前で頑張るか、3年間を通して頑張るか、頑張らなくても合格できるところを受けるか。 どれを選ぶかはその人の好きにすればいいが、その成果は受験で計る、という方がよほどすっきりすると思うのだ。
喩えるなら山登り。 求められているのは、ある決められた時点で、ある高さまで登っていること。 このとき、遥か遠くから時間をかけて緩やかな坂を上るか、急な石段を駆け上がるか。 どの道を通ってもいい。 時間がかかる緩やかな道を選ぶことを否定しない。 しかし、そのゴールと急な階段のゴールとを分ける必要は無いと思うのだ。