達磨に目を入れることにも抗議が来る世の中なんだね。 Yahooニュースから。
アメーバニュースの記事によれば、2003年の春の統一地方選時に、視覚障害者団体から「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識を育てることにつながりかねない」という要請が入ったことで問題化し、それ以来、選挙事務所にだるまを置く陣営は減少傾向にあるという。
乙武さんはこの報道を受け、Twitterを通じて「彼らはなぜ、『それしきのことで』差別や偏見だと感じてしまうようになったのか。それらへの是正を強く社会に求めていくようになったのか。そのことを考えるには、おそらくは彼らと対極の位置にいるだろう僕の思考や心境について説明する必要がある」として報道内容について言及した。
乙武さんは、「だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、世の中の多くのことがグレーゾーンになる」とし、その例として「手を焼く」や「足並みをそろえる」などといった語句を挙げ、「手足のない僕が、これらの言葉を『差別だ』と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる」と唱える。 そしてさらに「障害だけではない。美肌を良しとする風潮を、アトピー患者の方が『偏見を助長する』と主張する。モデル=高身長という概念は『差別だ』と低身長の人が訴える。現時点でそんな話を聞いたことはないが、これだって『だるまに目を入れる』のと大差はないように思う。正直、言いだしたら、キリがない」と持論を展開した。
ただ、だからといって、障害者団体の主張について「考えすぎ」「そんな意図はないはず」などと受け流してしまうことについては、乙武さんは異論を唱える。
多くの人が知る通り、乙武さんは生まれつき両腕両脚がないという障害を持ちながらも、その障害をネタにしたジョークをつぶやくことも少なくない。 時にそれは聞くものをギョッとさせるが、それでもなお続けるのは乙武さん自身が自らの障害を「ただの特徴」だと思っているからであり、「それにいちいち目くじらを立てられても…」と乙武さんは困惑するという。 しかし、それは個人のメンタリティであり、「そういう障害者ばかりではない」と乙武さん。 「幼少期にいじめに遭い、親にも受け入れられず、しんどい環境のなかで育ってきた方に、『障害なんて、乙武のように笑い飛ばせ』と言っても無理があるし、僕らが『それしきのこと』と感じることにも敏感に反応してしまう。『やめてくれ』と思ってしまう」と、理解を示す。 そして、「『いやだ』という人に、『そんなの気にしすぎだ』と言うのはかんたん。でも、彼らがなぜ『いやだ』と感じてしまうのか、そこに気持ちを寄り添わせる視点は忘れずにいたい」と、自身の見解を示すとともに、「幼少期に「障害がある」という理由でつらい思いをする人々が少しでも減るように、僕自身、尽力していきたい」と結んだ。
両目があって完全
が偏見意識とは、逆に言えば、目の片方または両方が無くても完全ってことだよな。
だったら障害者扱いを止めてあげようよ。
完全なんだからさ。
双方完全なのに片方にだけ各種補助があるとか、それこそ差別だろ。
ま、実際に抗議運動を起こすのは、目の見えない人の周りにいて自分の中にある罪悪感みたいなもののせいで何かと過敏に反応してしまう 「健常者」 なんだろうけどさ。 そんな子を持つ親とか。 で、そんな人の中で育って、気がつけば障碍者本人も変な認識に囚われるループ。 いや、子供の場合は、無意識のうちに親が喜ぶことを選択する場合もあるし… って、それも一種の刷り込みか。
ところで、どこまでが乙武君本人の発言なのか判らないけど、
乙武さん自身が自らの障害を「ただの特徴」だと思っている
と
手足のない僕が、これらの言葉を『差別だ』と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる
とは、明らかに矛盾してるよな。
自分のポジションを認識してないと、後の発言にはならないわけだし。
こうした言葉が出てくると、彼がたまに言う自虐ネタっぽいジョークも、乙武無双状態を確認するためなんじゃないかと穿った見方をしてしまうよ。
そう言えば、この人はよく自分の障害をただの特徴だとか個性だとか言うけど、個性って何なのかを微妙にぼかしたままなんだよね。 著書をパラパラと立ち読みした程度なので、どうこう言う程に判ってないのもあるんだろうけど、もっと根が深いところ、例えば 「犯罪に繋がる知的精神的偏りは個性なのか?」 といった議論に踏み込んでしまうのを避けているように感じるのは、気のせいか?
まあ、乙武君がどうかは置いておくとして、達磨に目を入れるようなことに抗議するような視覚障碍者って、何でも叶えてくれる神様から 「お前の望みを何でも叶えてやろう」 って言われたら、 「世界中の人の目を見えなくして欲しい」 なんて言いそうだな。