どちらかと言えば、 引越し が多かった方だと思う。 子供の頃、一番長く過ごしたのが、山口県の防府市だった。 小学校の1年の終わりから5年の終わりまでの、4年とちょっと。 他はだいたい1年ぐらいで引越しだった。 だから、 「子供の頃」 と言って思い浮かべるのは、この頃のことだ。
住んでいたのは、市の外れの方。 市内で2番目に小さい玉祖小学校は、2つ下の学年だけが2クラスで、後は各学年1クラスだった。 ちなみに、1番小さいのは島の小学校。
二六台。 佐波川。 田んぼ。 中国山地につながる裏山。 河童がいるという噂の湖。 自然に囲まれた、というか、自然以外には何も遊び場が無いところで、それはそれで子供にはいい環境だったと思う。
最初は、小学校のすぐ前の借家に済んでいた。 俺が2年のときだったと思う。 歩いて20分ぐらい離れたところに家を建てて、そこに引っ越した。 どちらかと言うと貧乏な方だったと思うが、家は広かった。 いや、土地が広かったのか。 100坪にちょっと足りないぐらいで、庭にはいろんな野菜や花が植えてあった。 農家育ちの父が休日に庭をいじって、季節になると、びっくりするほど大きなキュウリやナスが取れた。 「お父さんがやると良く育つのに、お母さんがやるとみんな枯れる」 と、母が良く愚痴っていた。 母には、紫蘇の葉と間違って庭に生えていた雑草の天麩羅を食わされたことがある。 父が帰ってきて、 「こりゃ紫蘇じゃのーてただの草よ」 と指摘したときには、もう散々食っていたのだった。
近所(子供が自転車で飛ばして5分ぐらいのところ)に精神病院があった。 人気の感じられない暗い窓が不気味だった。 しかしその不気味さは、精神病院の裏山にある大日古墳の探検をスリリングにするためのスパイスでしかなかったが。
精神病院のもうちょっと向こうに、屠殺場があった。 ある日、川で遊んでいて、ふと屠殺場を見たら、中を牛らしい影が歩いていた。 「ああ、これから殺されるのか」 と、ちょっと可哀想になった記憶がある。 殺されて、解体されるのを見たら、もう牛は食べられなくなるだろうか? それとも、やっぱり美味いものは美味いと、平気で食えるのだろうか? とか。 しかし、牛が殺される瞬間の声が凄いらしいよと友達から聞いたときは、その声を俺も聴いてみたいと思った。 結局、牛の断末魔の声を聴いたことは無い。
和歌山に転勤になることが決まった後だったろうか。 ある日、食事の後で父と母が話していた。 父方の祖父のところになっている本籍を、どうしようかと。 「本籍ってなに?」 と訊く俺に、戸籍上の住所だと答える父。 じゃあ家はここなんだから、ここにすればいいんじゃないの? と言うと、それは止めた方がいいと言う。 なんで? と訊くと、 「ここはこれだから」 と親指以外の指を4本立てて見せた。
四つ
そのとき、俺はその意味するところを知らなかった。 指4本なのか、曲げた指1本なのか、或いは手のひらを向けることなのか、自分の手を見てちょっと考えた。 それからまた父に、これってなに? と、父を真似た手を出して訊くと、ちょっと驚いた顔をしていた。 「同和って、学校で習ってないんか?」 と。
つづきはまた。