2001 05 13

口だけ

「螺(ら)」 とは、巻貝のことである。 成長するに従って大きくなる螺旋形だが、これを逆に辿るイメージ、 「振れ幅をだんだん小さくしながら上って、やがて一点に至る」 は、輪廻転生と解脱に通じる。 このため、巻貝やそれをシンボル化した螺旋が、仏教のいくつかの宗派で、世界を説明するために用いられるようになった。 そのような宗派の一つに、螺教がある。 主流の仏教に少し送れて中国南部に海沿いに伝わり、口伝の歌(このとき、意味は既に失われていた。 元はインド東部の民謡らしい)と、歌にあわせて螺旋を象って踊ることで救われると説く螺教は、文字に明るくない漁民を中心とする下層階級に広がった。

螺教に目九(めく。 目究とも)という僧がいた。 歌に合わせて踊るという螺教は、親しみやすい反面、正確さを失いやすい。 特に歌は口伝であるため、土地土地の言葉に影響を受けやすい。 子供たちに、螺教と一緒に読み書きも教えていた目九は、口伝に依るが故に起きる問題、つまり、

を解決するために、歌詞をつけることを思いついた。 意味が失われた音だけの歌に、その音になるべく近い意味のある言葉を当てて、覚えやすくしようと考えたのだ。 目九によって文字に表された螺教の歌は、その覚えやすさでたちまち螺教徒に広がった。 しかし、当然のことだが、他の僧はこれを快く思わなかった。 「覚えやすくはなるが、勝手な意味を付けてしまっては、それはもはや螺の歌ではない」 と、また 「口伝とはつまり向き合うことで、それによって正しい精神を伝えられるのだ」 と。 こうして、口伝を守る螺は 「口螺(くら)」 、字による螺は 「字螺(じら)」 として分派した。

さて、この目九という僧だが、非常に几帳面かつ短気な男だったらしい。 字螺の作成は当然目九の弟子も手伝ったのだが、この弟子が字を間違えることはもちろん、字が汚かったときにも、その書きかけのものを取り上げ、弟子の顔に突きつけて怒鳴ったという。 ここから、些細な間違いを取り立てて強く怒ることを、 「目九怒字螺立(目くじらを立てて怒る)」 と言うようになった。 (嘘)