交差点のすぐ近くにバス停があるのはどうなんだろう。 それも他の自動車の妨げにならないための場所を確保できないような狭い道に。
時刻表に数分遅れで来たバスに乗った時、車内放送で 「渋滞のためにバスが遅れまして…」 なんて言い訳してるのを聞くことがあるが、その渋滞の原因の何割かはバス停の配置のせいじゃないかと思う。
そんなことを考えながらバスを待っていた朝のこと。 目の前に止まった信号待ちの車をなんとなく見たら、側面に 「日本フルハーフ」 と書いてあった。
フルハーフって、きっと full と half だよな。 これ、どんな状態なんだろう。
半分がきっちり埋まっている状態って気もするが、考えてみれば並びが逆の half full が燃料が半分ぐらいあること、つまり1/2の意味なので、フルハーフが1/2ってのは違うだろう。 並びが逆なのを逆数と考えれば2となるが、これはもっと違う気がする。
一寸の虫にも五分の魂というが、これを half full と考えれば、この逆の full half は五分の虫に一寸の魂。 スーパーサイヤ人的やる気に溢れた状態といえば、納得できるようなできないような…。
暇潰しも兼ねて、乗り込んだバスの中で調べてみたら人名だった。 ドイツ系アメリカ人の名前だそうで、本来の表記は
Frühauf
英語表記だと
Fruehauf
fullでもhalfでもなかった。
このフルハーフ一族の一人が世界で初めてトレーラーを作ったのだそうだ。 日本フルハーフのサイトによると、トレーラーの始まりは以下の通り。
初めてのトレーラは、1914年に、デトロイトのグラティオット通りでカジ屋を営んでいたオーガスト・C・フルハーフと彼の職人達が1911年型T型フォードを使って作った。 アメリカの貨物輸送の担い手となった偉大なトレーラの先駈けだった。 まるで無声映画にでも出てきそうな、ひと時代前のカジ屋職人達が、湖にボートを運びたいというお客の注文に知恵を絞り、創り上げた第一号のフルハーフトレーラである。 そして、1918年にはアメリカ・フルハーフ創業。 まさにトレーラの発明でスタートした会社である。
そして1963年、フルハーフの技術を導入して設立されたのが日本フルハーフ。
実は本家のアメリカ・フルハーフは、経営悪化によりこの翌年に創業家一族の手を離れている。 更に1997年には同業他社に買収されて、フルハーフの名前も無くなってしまった。
しかしフルハーフの技術を導入し、フルハーフの名前を冠した会社は、日本だけじゃなくて世界各地に健在だとか。 フルハーフ国際会議なんてものもあるらしい。 分家大集合って感じだろうか。 こーゆーのってちょっと良いよな。 生き続けるフルハーフの遺伝子! みたいなの。
なんかここまできたらフルハーフが full half でも良いような気がしてきた。 世界に満ちる二重螺旋の片方とか、ねえ。
フルハーフとは何の関係も無いが、なんとなく full half な雰囲気の話。 昨日だったか、NHKのニュースで、中国が打ち出した 「一帯一路」 という経済圏構想を取り上げていた。
一帯とはかつての陸のシルクロードで、一路は海のシルクロードのこと。 このライン上に存在する各国に、主にインフラ投資の形で資本を投入して、親中国家に仕立てるという構想。
ニュースでは、これによる中国の影響力の拡大を懸念していた。 影響力の拡大で具体的に何が心配とは言わなかったが。 ここでウイグルやチベットを持ち出せばNHKを少しは見直すところだが、まあ、言わないよな。
で、この一帯一路だが、海側の一路の方は、何年か前に麻生君が首相時代に提唱していた 「平和と繁栄の弧」 なんだよな。
当時、この構想はニュースで取り上げられることがほとんど無く、麻生君については漢字の読み間違いばかりだった。 あの辺りを押さえておくべきってのは何を今更レベルの話で、逆にそんな構想をわざわざ打ち出さなきゃいけないことに危機感を感じるべきだと思うのだが、取り上げられるのは未曾有の読み方ばかり。 まあ平和と繁栄の弧って名前は大東亜共栄圏にも通じる胡散臭さがあるので、軍靴の音が聞こえる人たちの拒絶反応も想像がつくけどさ。
その点、一帯一路ってのは変な飾りがなくて好感が持てる。 名前だけは。 キラキラした飾りが何も無いのが逆に、あの辺りを全部自分のものにするという強い意志を感じさせるが、それも含めて、名前だけは。
あと 「一帯一路」 は 「痛いイチロー」 とちょっと似てる。
そうそう、NHKを見てて思ったことをもう一つ。
NHKでは毎週日曜日の朝に討論番組をやっている。 内容にもよるが、たいていは各党から一人ずつ招いて、誰にもだいたい同じぐらい喋らせている。 議論の進め方に疑問を感じることもあるが、発言する時間はだいたい平等になるように気を配っているように見える。
で、ふと思ったのが一票の格差。
所謂一票の格差というのは投票時の票の重みの違いだが、当選した議員が得票数に関係なく1票しか議決権を持たないのも一票の格差といえるだろう。 以前、というのは 2013年の衆議院選挙 だが、ちょっと気になって計算してみたら、東京住いの俺の場合、選挙における一票の格差が4.5倍程度だったのに対して、議決における一票の格差は7.5倍ぐらいだった。 結構酷い数字だと思うのだが、何故この格差が問題にならないのか。
この延長線上だが、得票数に限らず同じだけしか喋らせないのも一票の格差の一種ではないか。
2014年の衆議院選挙の結果は、Wikipediaによると以下の通り。
議席数 | 得票数(k) | |
---|---|---|
自民党 | 291 | 43,120 |
社民党 | 2 | 1,734 |
格差の問題なので、最大と最小だけを抜き出した。 得票数は小選挙区と比例区の値を単純に足している。
議員が、その人に投票した有権者の代弁者であると仮定しよう。 各党から一人が番組に呼ばれて、それぞれが1時間話した場合、投票者一人辺りの発言時間は以下の通り。
発言時間(s) | |
---|---|
自民党 | 0.08 |
社民党 | 2.08 |
格差26倍。 これまた酷い数字だよな。
その討論番組で一票の格差を扱っていたこともあるのだが、その討論そのものが一票の格差だとは考えなかったのだろうか。 ちゃんと認識していて、そんな格差を生み出していることを 「俺って凄い」 なんて思っているのだろうか。
もちろん討論するからこその討論番組で、得票数に単純に比例して喋らせれば討論が成り立たなくなってしまうのだが。 何かこの格差を埋める工夫が出来ないものか。 例えば出席者の名前を、単に名前だけじゃなくて 「4312万人の意見を代表する自民党のAさん」 や 「173万人の意見を代表する社民党のBさん」 と呼ぶのはどうだろう。 毎回そう呼ぶのが面倒なら、名札に書いておくとか、テロップを入れるとか。
少数意見を無視しないことが民主主義には大切なことだというが、ある意見が少数派なのか多数派なのかを正しく認識することはもっと大切だろう。
いやまあ、議員を投票者の代弁者なんて思ってないんだけどさ。