2005 06 24

形から入ろうとして途方に暮れる

仮に、相手の位置を0、こっちを100とする。 どこに境界線を引くかというと、たいていの日本人は真ん中の50だと言うだろう。 中国人は違う。 彼等は90までが自分たちのものだと言う。 それがそのまま通ればラッキー。 通らなくても、日本人はきっと 「お互いにちょっとづつ譲歩して」 なんて、中を取って70なんて言うだろうと期待して。 これがまたその期待通りになったりするのだな。 で、それに味を占めて、今度は70-100を0-100として境界を争うのだ。 って、まあ中国人に限ったことじゃないんだけど。

ということで韓国。 先日の日韓首脳会談では、韓国側は靖国神社に代わる無宗教の慰霊施設を建設するように要請していたのだそうだ。 日本国内の議論をベースに、妥協しやすい案を出してみましたってところか。

こういった靖国神社の代替施設を建てる話が出るとき、必ずと言っていいほど 「無宗教」 という言葉がセットになっているのだが、そう言う人は 「無宗教」 としていったいどんなものを想定しているんだろうか。 神様とか霊魂とかいったものを一切否定するのか。 それじゃあそもそも慰霊の必要が無い。 特定の宗教に偏らない最大公約数的なものを言うのか。 でも、それって形にできないような。 仮に形にできたとしても、それはどの宗教から見ても空々しい、むしろ馬鹿にしてるように見えるものになる気がするな。 というか、無宗教で納得できるのって、日本人ぐらいじゃないのかな。 いろいろ考えているうちに、逆に 「無宗教の慰霊施設」 ってものを見たくなってきた。 譬えて言うなら、プラシーボ? ノンアルコールのビール? オカマのパンチラ? あぁ、やっぱり見たくないかも。