ずっと奥の方から黒いあぶくが浮かび上がってきて、水面ではじけて、そこだけ少し黒くなる。 それはやがて、広がって、薄くなって、消えていく。 しかし、消えるよりも速く次々とあぶくが浮かび上がってきて、水面はどんどん黒く塗り潰されていく。 そんな感じ。
バンッ!と勢いよくドアが開き、その音以上に大きな声で 「あっ! 使ってたのかぁ」 と。 ちょうど1つ発見した問題が解決に時間がかかりそうなので、マシンを明け渡して帰ることにする。 6時半。 外は、袖をまくっているとちょっと寒い。
太った外人夫婦が座って、3人掛けの席にはほんの僅かしか隙間がない。 なのに、前に立った俺に向かって、 「ここにどうぞ」 と、その隙間を指してみせる。 そのおよそ20cmの幅に本当に座ってみようか。 きっと座りゃしないと思っているくせに。
クチャクチャとガムを噛む音が聞こえる。 俺の右に、こっちを向いて立っている、60歳ぐらいの爺さん。 すっかり禿げ上がって、てらてらと脂ぎった頭。 酒が入っているらしい赤い顔。 両耳からコードがズボンのポケットに繋がっているのは、何か音楽でも聴いているのだろうか。 吊革に掴まって、目を閉じて、薄笑いを浮かべて、クチャクチャクチャクチャ…
電車が込んできて、人に押されて、その爺さんが近づいてくる。 それにつれて、クチャクチャも大きくなる。 いや、近付いた所為だけじゃない。 ガムを噛む音自体が大きくなっている。 他の人も時々振り返ってみるぐらいに大きな音でクチャクチャクチャクチャ…
電車は更に込んで、クチャクチャがどんどん近付いてくる。 口の中で、白いのが、腐ったマグロ色の舌にぬらぬら弄ばれているのが見える。 四谷を出た頃にはもう耳元で、ハッハッという息遣いまでも混ざって、クチャクチャクチャクチャ…
女の人が歩いている。 白い杖。 視覚障碍者か。 「街に出る障碍者の笑顔」 を、彼女も見せている。 あれは訓練で身につけるものなんだろうか。 「あなた達は好奇と嫌悪の混ざった目で見られるのだから、せめて笑顔でいなさい」 と。
その彼女、平地を歩くのはゆっくりだが、階段を下りるのは速い。 目が見えないにしては、という条件を外してもなお速い。 やや前下に出した杖が何にも触れない間は階段だから、規則的に足を運べばいいということか。 白い杖を見た人が道を開けるため、彼女は人混みにも関わらず、すいすい歩く。 おかげで、すぐ後ろを歩く俺も楽に進む。
階段を下り切って、立ち止まった彼女の横を通り抜けたときに、 「邪魔なんだよな」 と言ったのは、彼女の反対側をすれ違った40過ぎのサラリーマン風か。 振り向くと、彼女の笑顔がこわばっていた。 それでも笑顔だった。 そう見えた。
小さい子供を連れた家族はなるべく避けるようにしているのだが、隣に並ばれたんじゃ仕方がない。 せめて泣かないでくれと願うだけだ。 が…
お兄ちゃんが、ポケットからチョコレートを取り出して食べる。 私も欲しいと妹が言う。 自分のを食べたんだろ、と、当然のように拒否するお兄ちゃん。 母親の足にしがみついて泣き出す妹。 涙は1滴も出ていない。 「お兄ちゃんなんだから、少しは譲って上げなさい」 と母親。 渋々チョコレートを差し出すお兄ちゃん。 たちまち泣き止む妹。 涙は1滴も出ていない。
みんな消えてなくなれ。