日野駅から乗り換えるバスに、たまに乗り合わせる婆さん二人組。 お互い耳と頭とが悪くなっているせいか、バスに乗っている間ずっと大声で喋っていて煩い。 喋る内容が、そこにはいない別の婆さんの悪口ばかりで、煩さもより一層なのだ。 今日もうっかり乗り合わせてしまって、どこかの婆さんの悪口を延々聞かされていた。 不幸なことに、婆さんたち俺のすぐ隣に座っていて、いつもの何割か増で煩い。
で、強制的に悪口を聞かされていて気付いたのだが、婆さん二人が貶しているどこかの婆さんが、たぶん違う婆さんなんだな。 言ってる内容は、どちらもほぼ同じ。
あの人は泥棒。 何度も盗んでは見つかって捕まっている。 今では、あの人と口をきく人はいない。 みんな嫌っている。
で、お互いに 「そうそう、こんなこともあったんだけど、あんた知ってる?」 と続けていくのだが、所々に挟まれる見た目とか住んでる所とか家庭環境とかが全く違う。 なのに、お互いがそこはスルーして、 「そうそう、こんなことも…」 と続く。
「あの人、いっつも同じ黒い服ばっかり着てるよね。 立川でよく見るんだけど、何か汚らしいの」
「あ、そう? 私が見る時はいつも大和田だけど、白い服ばっかり着てるよ。 いつも同じの。 確かに汚かったね」
とか。 だから別人だろ、それ。 気付けよ。
そんな悪口を聞かされるのも嫌なものだが、更に嫌なのは、婆さんたちが互いに情報提供する時に挟む枕。
噂なんだけどね。 本当かどうか知らないよ? 噂だから。 これ、私が言ったって、他の人に言わないでね?
たぶん、バスの中にいる全員が、心の中で突っ込んでるだろう。
だったら言うな!
あの婆さん達が昔からああだったのか、歳を取ったからああなってしまったのかは判らない。 歳を取ったら誰でもああなるのだとしたら、歳を取ることは俺にとっては激しい恐怖だな。 そして、割と真剣に思う。 あの婆さんたち、 生きてる価値があるのか? と。 俺は、ああなる前に死にたい。 まあ、ああなる前に死にたいと思う人に取って、ああなることが救いなのかもしれないが。
高幡不動の千体地蔵堂の奥にある明王像。
力の強さや神性を手や顔の数の多さで表すのは、手や顔の数の多さでしか表さないのは、様式なのか、想像力の貧困さなのか。 当時の職人は、現代アニメにでてくる触手なんかを見たら、どう思うのだろう。 明王像にも取り入れてみようなんて思うのかな。