1998 08 14

敗者にかける言葉

雨が降っているせいもあって、果てしなく何もしない怠惰な一日。 久しぶりに熱闘甲子園を見る。 相変わらずのスポーツドラマ感動路線に、見なきゃよかったと後悔。 負けたチームの、レギュラーになれなかったやつのドラマなんて、いらいらするだけだ。

野球やサッカーなどの団体競技じゃまずないけど、個人競技、特に格闘技だと、勝者が敗者の手を挙げて、観客に拍手を要求するようなことがある。 それが俺には気になるのだよ。 敗者の惨めさが増すだけ ではないか。 俺には、そう見える。 わざわざそんなことをするのが、勝敗が圧倒的についたときだけだというのが、よけいにそう思わせる。

勝負といえば、受験。 合格して、 「落ちた人のことを考えて、喜びの表現を控える」 なんてふざけたことを言うやつがいる。 そんなのは自己満足だ。 もっとも、人のすることは全て自己満足なのだが、それを 「誰かのため」 なんて言うのが、気に入らないのだよ。 自分が合格したから落ちたかもしれない人がいるという、うしろめたさのようなものに対して、自分も何かを抑えることでバランスを取ろうとするんだろうが、それこそが逃避なのだ。 自分が踏みつけたものたちに対して、恥ずかしくない実力を身につけること。 勝者が敗者にしてやれることは、それしかない。 可哀想がられるぐらいなら、勝ち誇られる方がましだ。 可哀想がられることこそが可哀想 なのだということを、忘れてはならない。

そう思うのは、俺がこれまでプライドを捨てずに生きてこれたからだとすれば、これはこれで救われない話ではある。