1998 12 13

冷たい優しさ

コーヒーに何かゴミのような物が浮かんでいるのに気付いて、よく見ようと顔を近づけたら、眼鏡が曇って何も見えなくなった。 人生ってのは、そんなもんだ。

他人から言われるならともかく、親からも 「冷たい」 と言われるに至っては、これはやはり冷たい人間なのだろう。 子供が死んだニュースを見て涙ぐむような、下町的暖かさや優しさといったものは、確かに俺には殆ど無いようだ。 「渡邊君って、まるで実験動物でも見るような目で、人のことを見てる」 とまで言われてしまうに至っては、もはや冷たさ確定であろう。

もう何年も前のそんな言葉を思い出したのは、一昨日だったか、電車の中で二十歳ぐらいの女の子3人が話していたのを聞いたからだ。

「バイバイの後、一度も振り返らずに行ってしまうような冷たい人はちょっとね」

自分を省みてみるに、振り返ってもう一度手を振るようなことはない。 こんな下らないことで冷たいと判断されるとは、ってゆーか、これを下らないと感じている時点で既に冷たいのだな。 一事が万事である。 他にもいろいろと、些細なところで冷たいと判断されているのだろう。 冷たいよりは、温かいとか優しいとか思われた方が何かと得なことが多そうなので、 「温かい優しい人ならこうするのではないか」 と思われる行動をとろうと心がけてきたつもりだが、まだまだ甘かったわけだ。

この際だから、 総量よりは変化に反応する という人の性質を利用する方向に、考え直した方がいいのかもしれないな。 つまり、 「渡邊君は優しい」 ではなくて、 「渡邊君は意外と優しい」 である。 こっちの方が、とにかく楽そう。 冷たそうだけど意外と優しいと言う勘違いは、普段のマイナスの殆どを許してくれるみたいだからね。

問題
些細なことに優しさを感じる、その 「些細なこと」 を示せ。