1999 02 12

少しは親孝行をしてみようか

浜松町からの帰りの電車。 俺の隣に座った小汚い男が、賞味期限をとっくに過ぎたと思われる週刊誌を広げていた。 そこに書いてあった。

川に落ちた幼児を助けようとして、父親が飛び込み、二人とも死んだ

俺が、小学校の5年ぐらいだったと思う。 同じようなニュースをテレビでやっていた。 水じゃなくて、火事で取り残された子供を助けようとしたのだったかもしれない。 とにかく、赤ん坊を助けようとした親が、一緒に死んでしまったという話だった。

「馬鹿なこと」

そのとき、一緒にニュースを見ていた母が言った。 殆ど助からないような状況に飛び込んで、自分も死んでしまうのは馬鹿だと。 生まれて間もない子供なら、まだ手も愛情もそれほどかかっていない。 諦めもつくだろう。 また次の子供を産めばいいではないか。 それに、なんとか赤ん坊だけが助かったとして、それからどうやって生きていくのか? と。

「馬鹿なこと」 だという母の見方は、そのときの俺には、少々冷たいが、合理的であるように思えた。

両親は、今で言うところの 「できちゃった結婚」 だったらしい。 できちゃったのは、俺だ。 逆子で、予定日を大幅に遅れて陣痛が始まり、帝王切開で産まれた。 2年後に妹が、逆子で、帝王切開で産まれた。 そして、母は子供が産めなくなった。 「今度妊娠したら、母子ともに命が保証できない」 と、医者が言ったそうだ。 これ以上は、妊娠から出産という負担に、体が耐えられないということだった。

電車の中で、今更のように気が付いたのだ。 あのとき、 「馬鹿なこと」 だと言った母の言葉には、本当は、 「まだ産もうと思えば産めるのに」 という言葉が、省略されていたのではないか? と。 「自分はもう産めないのに」 という思いの裏返しとして。

それが正しいかどうかは、判らない。 でも、そういった可能性にもっと早く気が付いていれば、いや、気付いたところで状況がどれだけ変わるわけではないのだが、それでも、もう少し優しい目で、母を見ることができたかもしれない。 「子供なんかいらない」 という俺の言葉を、母はどんな思いで聞いていたのだろうか。

「あんたぐらいになったら、もう一人でも、なんとか生きていけるからね」

あのとき、小学生だった俺に向かって、そんなふうにも言った。 一人で生きていくということの具体的なイメージは何もなかったのだが、曖昧に頷いた記憶がある。

まあ何とかやっているよ。