1999 02 28

脳死者からの臓器移植

死んだ人は、もう人ではない。 俺はそう思う。 脳死は人の死で、どんどん移植すればいいと思う。

しかし、経験したことが無いので想像でしかないが、家族の視点は、そうではないような気がする。 家族に必要なのは、死を受け入れるための、ある種の 「納得」 であると思うのだ。 「誰かの体内で活きる」 というよりも、 「心臓が止まるまで見守る」 という方が、その納得を得られるのではないか。 そんな気がする。 脳死というのは、殆どの場合が、まだいかにも生きているように見えるだけに、よけいにね。

今回の移植騒動では、 「情報公開とプライバシー」 というのを、散々聞かされた。 情報公開ってのは、行政に対するものだったんじゃなかったか? というと、 「初めての脳死者からの移植であり、社会的影響が大きく、もはや個人の範囲ではない」 なんて返すんだろうな。 それだって、ずいぶん勝手な理由だと思うけどね。 しかしそれよりも疑問に感じるのは、こうした騒ぎが、 善意の結果としてふさわしいのか? ということだ。 何の気なしに提供するって言っていたとしても、結果として善意であることには間違いないだろう。 しかも、誰かの迷惑になる善意ではない。 その結果がこの騒ぎでいいのだろうか。 臓器提供者の家族は、納得する(或いは、しょうがないこととして諦める)のだろうか。

もう一つ。 今回に限らず、脳死患者からの移植という話を聞くたびに、俺は思うのだ。 移植を待っている患者は、きっと心の底で、 早く死んでくれ と、願っているんだろうなと。 臓器さえ提供してくれるなら、誰でもいいから早く死んでくれと。 そう思うのは、つまり、俺がそう思う人だってことなんだけどね。