鹿のくすりや のがんこさんは、どうやら中2の時の同級生だったらしい。 当時の記憶は俺の中ではかなり薄いのだが、それでも思い出せることが幾つかあるので、忘れないうちに書いておこう。
その当時、しばらく前に渡辺真知子(で字はあっているのかな?)が流行ったせいで、俺は 「まちこ」 と呼ばれていた。
社会の時間に渡辺華山が出てくると、一時的に一部から 「かざん」 と呼ばれたりもした。
何のひねりも無いのだが、まぁ中学生なんてのはそんなもんだろう。
大橋君という優等生タイプの子がいて、そいつは 「きょせん」 と呼ばれていた。 ひねりの無さでは負けず劣らずだ。
学級新聞(檸檬だったかな)を、彼が中心になって作っていたような気がする。 その辺のことは、彼が1年の時のクラスのやり方を踏襲したものらしい。
その学級新聞のなかで、岩崎さんが、 「そのクラスの真似ばかりしているようで、何となく嫌だ」 と書いていたような気がする。
岩崎さんは、色白のショートヘアーだったような気がする。
パセドー氏病になると眼が出てくるなんて話をしているとき、横にいた女の子が、 「じゃあ原さんってパセドー氏病?」 なんてかましてくれて、大笑いしたことがある。
その女の子は、バレンタインデーにチョコレートを持ってきたら、見つかって職員室に正座させられそうだ。
溝端君は鼓笛隊かなんかにいたそうで、棒をくるくる回すのが得意だった。 やり方を教えてもらって、掃除の時間にみんなで箒をクルクルクルクル…。
彼は 「あいぃ」 と呼ばれていたのだが、その由来は不明。
そうそう、こいつ部活の時間に下級生をいじめたとかで、 「何をやったんだ?」 と先生に問いつめられて、 「バックドロップしました」 と答えたんだった。
「けいた」 と名前で呼んでいたのは、山本君だと思う。 顔がテレスドン(ウルトラマンの怪獣)に似ていた。
ある日、蓄膿症だということが判って、テレスドンに似た蓄膿症ということで、テレチクノドン。 略してテレチク。 「けいたっ!テレチクッ!」 なんて言ってたのだが、無邪気というには酷過ぎな気が…
英語の先生の 「ほとみ」 と言うのは、あだ名かと思ったら本名だった。 名前は清之助だそうだ。
彼の英語はちょっと訛っていたような気がする。 ほとみは中1のときの英語だったかな。
理科は女の先生だった。
酸化還元のときに、 「酸化銅を還元するにはどうすればいいか?」 と質問されて、 「血をかけたらどうか」 と答えた。 ヘモグロビンが酸素と結びつくなら、それで銅が還元できるのではないかと思ったのだが、この先生はそれには答えなかった。 どうなるか判らなかったのだろう。
芝崎君と、よくゲームセンターに行った。 ゴミ置き場からガスコンロのスイッチなんかを手に入れて、ただでゲームをした。
当時のゲームは、平安京エイリアンとかギャラクシャンとか。
近所の野田君や木村君なんかと一緒に通学していた。 クラスは違ったと思う。
4時間目が終わると家に帰って昼飯を食い、また学校に行っていた。 このとき、丘の林の中を抜けていくのだが、その通り道に大きなスズメバチの巣があって、石を投げつけて走って逃げるのが日課だった。 学校に向かうときは下り坂なのを幸いに、石を投げたら全力で駆け下るのだ。 ときには坂を下りきってもまだブーンと追いかけてくる羽音が聞こえて、必死で走ったりした。
中1の終わりに転校してきて、中2の終わりにまた転校したから、1年とちょっとか。 けっこう思い出せるもんだな。 一つ思い出すとまた一つって感じ。
転校が多いって言うと、 「いろんなところに友達ができていいね」 なんて返ってくることがある。 それはまぁそうなのだが、俺の場合は離れたらそれっきりだ。 友達といっても、たまたま近くにいたから話すって程度だし。 しかしその程度であっても、何度繰り返しても、 「さよなら」 ってのは慣れないもんだよ。
けっこう曖昧なもんだな。 川島君じゃなくて川嶋君、栗須さんじゃなくて栗栖さん、ほとみ先生は保富先生、石神先生は数学だそうだ。
あれ? すると石神先生が体育館で池田君に殴られたのは、いったい何をしていたときだったんだろう?
社会の先生( 1999/02/07 )は小川リコーか。
岩崎さんは、髪が長かったらしい。 とすると、後ろで結んでいたのだろうか。 そうそう、檸檬の読み方は、岩崎さんに教えてもらったんだった。