1999 09 04

それもちょっと

海外で起きた飛行機事故に対して、ニュースで必ず出てくる言葉。

「乗客名簿に日本人らしい名前は見つかっていません」

状況がはっきりしてくると、 「日本人は乗っていませんでした」 とか 「日本人の死傷者はいませんでした」 になる、日本人の被害(被災?)者がいないことを告げる言葉ね。

子供の頃、と言うのは中学校の頃だが、これが嫌いだった。 「日本人さえ無事だったらいい」 というようなニュアンスを感じて、それが当時の俺の子供っぽい正義感を刺激したからだ。 「人がたくさん死んでいるのに、日本人じゃなくて良かったなんて言うのは、酷いじゃないか」 とか、 「日本人が死ぬことと、外国人が死ぬことと、何の違いがあるんだ」 とか。

考え方(と言うより受け取り方)が変わったのは、確か高校2年の時だったと思う。

ある日のニュースに、海外で事故にあって死んだ日本人の遺体とその家族の映像が流れていた。 奥さんらしい人の泣き顔と、まだ小さい子供の不安そうな顔に、 「子供なんかいなけりゃ、この先の生活がずっと楽になるんだろうになぁ」 とか、そんな薄情なことを考えていて、いきなり気が付いた。 「日本人の死傷者がいない」 というのは、この人達に向けられた言葉なのだと。

海外で事故があったとき、仕事なり遊びなりでその辺りに行っている日本人がいるかもしれない。 国内にいるその人の家族や親しい人は、何よりもまずその人の安否を知りたいだろう。 「日本人の死傷者がいない」 というのは、国内で心配している人に向けて、 「今あなたが心配している人は無事ですよ」 と言うことなのだ。

それでほっと安心するのは、突き詰めていけば 「日本人さえ無事だったらいい」 と範囲が違うだけで本質は同じ、 「自分の大切な人さえ無事だったらいい」 と、さらには 「自分さえよければいい」 ということだ。 しかし、それはまあしょーがないことなんだよな。 平等なのは、どーでもいい人の命だよ。

浜崎あゆみのCDを買ってしまった。