1999 12 06

騙されたくて騙される人

たまに宗教や自己啓発セミナーの勧誘が来る。 気分次第で、話を聞いてやったり、さっさと追い返したりする。 昨日もきた。 ちょうど夕食を作っているときに来たので、ドアも開けずに追い返した。 ドアの外で、 「今日も誰にも話を聞いて貰えなかったけど、まだまだ頑張るぞ。 えい!えい!おー!」 と気合いを入れて帰っていった。

面倒だから、自己啓発セミナーもひっくるめて、宗教と言い、信者と言う。 奴らは確信犯だ。 奴らの布教活動は、 「真実を知らないから嫌がるのであって、真実を知ればきっと喜びに変わる」 という信念による行動だ。 夕方の食事時にのこのこやって来て興味のない話を聞かされるのは迷惑だと、普通は考えるだろう。 もちろん奴らも、そのぐらいは考える。 が、奴らは更に、 「そこでちょっと我慢してもらってでも、真実を知れば、それまでよりもずっと幸せになれる」 と考えるのだ。 つまり奴らの行動は、奴らなりの善意なのだ。 そんな信者達の笑顔に、俺は薄ら寒いものを感じるのだが。

何で宗教にのめり込むのだろうか。 俺の機嫌がいいときに勧誘に来た信者を観察したところから考えるに、核心はどうも立場の逆転にあるらしい。 わざわざ宗教に行ってみる人は、実生活に於いて何かしらうまくいかないことがある人だろう。 ところが、宗教に入って、そこで 「真実」 とか 「本当に大切なこと」 を知ると、今度は世間の人たちの方が哀れむべき無知な人たちになってしまう。 そこでは自分は 「救ってあげる」 立場の人だ。 それまでのコンプレックスが強ければ強いほど、この立場の逆転による快感も強くなる。 と、まあだいたいそんなところだろう。

さらに、たいていの宗教は、 「抜けると、前よりももっと悪くなるぞ」 という追い込みもセットになっている。 法の華はこっちがメインだな。 寄せて上げるブラがやめられなくなるようなもんか。