2000 02 19

猿は猿より出て猿並に猿

おばさん二人が遠慮無しに喋っている。 その周りを、おばさんの達の子供がはしゃぎまわっている。 隣に座った爺さんが露骨に迷惑そうな顔をしている。 一触即発ってやつだな。 と、爺さんがぶちきれるのを期待して見ていた。

電車が揺れて、子供の片方が爺さんの足を踏み、そのまま爺さんのひざの上に手をついた。

今だっ!

心の中で、爺さんに竜虎乱舞のコマンドを入れたのだが、ミスったらしい。 爺さん、子供の手を払いのけて、 「電車の中で騒ぐな」 と言っただけだった。

それでも子供はちょっとびびって、爺さんの反対側、おばさんの陰に隠れるように移動した。 おばさんの片方が、爺さんにちょっと謝った後で、子供に向かって言った。

「だから言ったでしょ! 電車で騒ぐと怒られるって!」

「怒られるからじゃなくて、迷惑だからとか、いけないことだからとか、そういった理由で怒るのが正しい」 と言う人がいる。 「怒る」 じゃなくて 「叱る」 か。 俺も昔はそう思っていた。 しかし、よくよく考えてみるに、どう言ったところで大した違いはないんだな。 迷惑なことをしてはいけないのはなぜか? それで怒る人がたくさんいるからだ。 迷惑だから止めろと言うのは、つまり、たくさんの人に怒られるから止めると言うことだろう。 違うのは人数だけだ。

子供にとっては、不特定多数の人の迷惑なんてものよりも、目の前の大人の怒りのほうが、抑止力としては遥かに強力だろう。 自制心や良心は、躾の過程で内在化した親の影だって説もあるし。 実際、ここで子供が騒がなくなったとしたら、それは誰かの迷惑だと気付いたからじゃなくて、親に怒られるからだろうしね。

「怒られるから止めなさい」 を訂正しなきゃ気が済まないのは、その言葉に 「他の人はこんなことじゃ怒らないのに」 なんて響きを感じたり、 「自分だけがみっともなく怒っている」 ような雰囲気を感じ取ったりするからかね。

その点、俺は全然平気だから、出汁に使ってくれてもいいぞ。 目の前の一人の怒りを知ることを積み重ねて、不特定多数の迷惑を考えるようになるのなら、俺がその目の前の一人になってやろうではないか。 「俺に怒られるから静かにしなさい」 で大いに結構だ。 期待通りに怒って、張り倒してやってもいいぞ。 更に母親をぶん殴って鼻血と涙の中に土下座させ、その様を子供に見せつけて、耳元で 「お前のせいだ、お前のせいだ、お前の…」 と、繰り返し囁いてやってもいいぞ。 2度と電車の中で騒いだりしないだろう。

なんて、疲れてるときは碌なことを考えないな。 とにかく、何でもいいからガキを静かにさせてくれ。