2000 03 24

死刑

殺してから犯し、泣くのが煩いからと子供も殺す。 犯人が成人していれば、たぶん死刑だったろう。

俺は、死刑には反対だ。 どんなに酷い事をしたとしても、死刑にすべきではないと思っている。 犯人を死刑にしたところで、遺族の気持ちは救われないだろう。 と言うのもまぁあるのだが、一番の理由は、もったいないから。 とりあえず、つかえる臓器は全部登録しておいて、移植適合者が現れたらすぐに使う。 で、労働力として使える間は労働力として使う。 きちんと洗脳して。 原発の建設現場のような危険なところとか、福祉施設のようなきついとことか。 あとは新薬や新治療法の人体実験とか。 洗脳して人格を殺す訳だから、ある意味死刑ではあるのだが、本当の死刑と違って体は残る。 使えるものを使わないのは、やっぱりもったいないよ。

なんて言うのも酷い話ではあるんだけど、俺は、更正なんて無理だと思っているからね。 そうなってしまった者は、もうどうしようもないよ。

ところで、死刑にしろと主張する人は、 「じゃあ、あなたが死刑を執行してください」 と言われたら、やるのかな。 やらないんだろうな。 それは遺族がやるべきだとか言って。 その遺族から頼まれたとしても、きっとやらないだろう。

死刑を認めている法律の下で死刑を主張することは、間接的にだが、死刑執行に参加することだ。 しかし、それは所詮間接的でしかなくて、自らが殺す側であるという感覚は、ものすごく薄っぺらにしか持てないだろう。 自らの手を汚さない(汚しているという実感をもたないで済む)場所から、その覚悟もなしに死刑を求めるのは、どうなんだろう。 どうでもいいか。

「手を汚す」 という表現はどうかと思ったけど、死刑執行って、やっぱり汚れ仕事だよなぁ。 これも、何度もやっているうちに、やっぱり感覚が変わってくるのかな。 医者が解剖に慣れるように。 或いは、風俗嬢が男を 「1本2本…」 と数えるように。 「今日はいくつ?」 「午後から2つ」 なんて。