2000 05 01

少しだけ

小さい頃、俺もよく母に叱られた。 叩かれたりすることは滅多に無かったと思うが、叩かないまでも、けっこうきつく叱られることはあった。 今になって思い出そうとしても、何で叱られたのか殆ど思い出せないのだが。 で、泣き出してしまうぐらいにきつく叱られたときは、 「ごめんなさい」 と言う俺を、 「判ったね?」 と母が抱き寄せて終わるのが常だった。

小学校の2年だったか。 ある日、やはり叱られていて、そろそろかなと思って、謝って、抱き寄せられて、解放された。 そのときの俺は、そんなに自分が悪いとは思っていなかったのだが、まあ謝っておいた方がいいかと思ったから謝った。 なのに、いつもの儀式を終えて、反省してしょんぼりしている(ように見える)俺に、母は優しかった。

それ以来、許しの儀式に対して、何か抵抗を感じるようになった。 「俺のことを判っているのだろうか?」 という疑問。 それで、ある日、また叱られたときに試してみた。

頃合を見計らって 「ごめんなさい」 と言う。

「判ったね?」 と母が抱き寄せようとする。

抱き寄せる力に抵抗する。

抱き寄せようとしても寄って来ない俺に、母の顔は険しくなった。

「まだ判らないの?」 と肩を掴まれた。

すぐにまた 「ごめんなさい」 と言い、自分から寄って行った。

後はいつもの通り。

このとき、やはりなぜ叱られたのかは覚えていないが、叱られたことに対しては自分が悪かったと本当に思っていた。 だから余計に、なのかもしれない。 この結果に俺はがっかりした。 「なんだ、こんなものだったのか」 と。

その後、謝った後に抱き寄せられることは、殆ど無くなったように思う。

今は、あの時がっかりしたことも含めて、それでいいのだと思う。 子供の気持ちは判ってなかったかもしれないが、それでも、母もきっと一生懸命だったのだ。 子供は日々成長しているのだから、子育てはいつも 「初めて」 ばかりで、親にとっても不安なことだろう。 かつて、俺がもっと小さい頃にはきっと効果的だった、 「叱った後に優しく抱きしめる」 を何時までもやってしまう気持ちは、何となくだが、判る。 それに抵抗を感じるようになったのは俺の成長で、それでまた親も親として成長するのだろうと思う。

Webに公開された他人の、それも 「親」 である人が綴ったテキストを読んで、自分の中の遠い記憶を引っぱり出されことがある。 もちろん、そこに綴られていることと、俺の記憶との間には、現実的な接点は何もない。 何もないのだが、それでも、あのとき親はこんな気持ちだったのだろうかと、想像する手がかりにはなる。 それが、Webに個人の日記やコラムなんかがあって良かったと思う理由の一つ。 ま、良かったと思うのは俺だけで、全然双方向じゃないんだけど。