2000 09 11

否定

寒くて目が覚めた。 雨が降っていた。 この時期、窓を開けっ放しだと、朝はちょっと寒い。 なんか頭痛がする。

これまで川崎でやっていたのが柏に移転することになって、そのための設定変更に、朝から柏へ。 で、行ってみたら、最初に聞いていたのからまたちょっと変更になって、わざわざ俺が行かなくてもいい状況になっていた。 折角行ったのだからと、川崎で使っていたパソコンにも予備用に設定したのだが、データベースに接続できない。 問題はネットワークの設定にあるようだが、それは俺の責任範囲じゃない。 ネットワークの管理者に設定を確認してもらうことにして、昼ちょっと前にそこを出た。

インストールのやり方を説明するために、午後は浜松町へ。 手順は至って簡単。 軽く説明して、実際にやってみせようとしたのだが、ODBC のドライバーが無くて駄目。 どのドライバーを使えばいいかを指示して、3時半ちょっと過ぎにそこを出た。

外は物凄い雨。 駅までの僅かな道で、胸から下がびしょ濡れになった。 電車に乗ると、こんな状況だと言うのに冷房してやがる。 頭痛が本格的になってきた。 風邪でも引いたか。

新宿駅で買った AERA に 「脳障害詩人育むニューファミリー」 という記事が載っていた。 その中の、子育てについて語る母親の言葉

自分への否定的な目を体験することが成長でしょうか。 遠回りだと私は思う。 否定を乗り越えてきた子と、全く否定を体験しなかった子では、後者の方が心が豊かで強いはずです。

これに、なんだか不愉快な引っ掛かりを覚えて、 「そんな薄っぺらな豊かさを作ってどうする。 そうやって一生肯定だけでやっていけるのか? そんな風に甘やかすから、根拠もないのに自信満々で、ちょっと否定すると極端に傷つくクソガキが出来上がるんじゃないか」 と、自分の中でせっせと否定していたのだが。

俺がそんな風に否定するのは、つまり、これまでに否定的な目を体験してきたからで、 「否定されることが自分の糧になっている」 と思いたいからだ。 これまでが単に遠回りだったと思いたくない。 遠回りであっても、そこで何かを得てきたんだと思いたい。 否定を体験しないことで得られる何か、俺がもう決して得ることのできない何か、そんなものはろくなもんじゃないと思いたい。 そんなところだろう。 ある種の自己防衛だ。

が、考えてみれば、それはこの親達も同じことなんだよな。 自分達がやっていることを正しいと思いたいから、こんな言葉が出てくるのだろう。 不安があるからこそ、信じたいのだ。 そもそも、脳障害という大きな否定を、初めから背負っているじゃないか。

と、考えるのも、またある種の自己防衛だな。 「あいつらがそう考えるのはしょーがないか。 可哀想な人なんだし」 なんて感じで、自分を納得させるための。

ま、どうでもいいか。

冷シャブ、ビアシャブ、おろしシャブ。 シャブ漬けの日々にもさすがに飽きて、牛タンを買ってきた。 塩・胡椒して、焼いて、レモン汁で食う。 簡単で美味い。

ざざざざ

ベランダの手すりを叩く雨が、カンカンカンと硬いものがぶつかるような音を立てる。 都心では、床上浸水もあったんだそうだ。