2003 11 25

付喪神

財布や定期の隣に、デジカメとポータブルMDプレーヤー(以下MDP)が並んでいる。 MDPは買ったその日に録音機が壊れたために、まだ一度も使っていない。 天気のいい休日、出かけるのにカメラを取ろうとすると、当然のようにMDPも目に入る。 そんな時、どうにもMDPに悪いことをしている気になるのだ。

「いいよなあ、デジカメは。 毎週出番があって」

「このところずっと写真日和だからね。 お前もそのうちお呼びがかかるよ」

「そうかなぁ…俺らMDって、普通は通勤のお供だろ?」

「まあ、そうかな」

「それが、あれだけ出張続きだったのに、出番無しだよ。 ちょっとおかしくないか?」

「あの時はずっとパソコン持ってたじゃん。 財布の向こうのあいつ。 結構重いらしいよ」

「それだけかなぁ…録音機だってまだ買ってないんだよ?」

「いや、買いには行ったんだよ。 俺も一緒に行ったから知ってるけど、ちょうど品切れでね」

「そうかぁ…そのうち買ってくれるのかなぁ…俺も充電されてみたいよ」

なんてやり取りを想像したりして。 半ば諦めながらも、かすかな希望を捨てきれず、そしてその希望の故に、何度も何度も落胆を味わうのだ…なんて大げさに考えてみたりして。 まあとにかく、妙に擬人化して考えることが多いのだ。 MDPに限らず、例えば新しい靴を箱から出すとき、新しい靴は 「やっと俺の出番だ」 と、古い靴は 「あーあ、俺ももうお払い箱か」 なんて思っているんだろうと、想像しているのだな。

どんな場合により強く擬人化しているかを考えてみるに、どうやらキーワードは 「もったいない」 らしい。 まだちょっともったいないかなと思うとき、その思いに俺がもともと持っているアニミズム的なものが混ざって、擬人化をしてしまうようなのだ。 付喪神ってやつか。 あ、逆に 「もう捨てるしか無いんだろうけど、愛着があって捨てるに忍びない」 という場合もあるな。 いずれにしても、心の中の小さな葛藤の表れ。 良心的と言うか、小市民と言うか。

今は深夜2時。 遠く、救急車らしいサイレンが聞こえる。