2007 08 09

負の連鎖

朝青龍は、心の病なんだそうだ。 相撲はできなくてもサッカーはできる体の怪我。 それを責められて心の病。 結局、巡業が嫌で仮病だったんじゃないの? と、一連の報道はそんな感じだが、その裏で実際どんなことになっているのか、俺は知らないし興味も無い。

ちょっと気になったのは、この件についてコメントする相撲関係者。 特に元力士。 彼らは一様に 「朝青龍は甘えている」 と言う。 甘えさせている(?)親方や相撲協会へのコメントは分かれることもあるが、朝青龍に対しては 「甘い」 で一致。

彼らからすれば、朝青龍は甘く見えるのだろう。 彼らの口から語られる、彼らの現役時代の生活を聞けば、確かに朝青龍は甘いんだろうと思う。 でも、そういった意見しか聞かないからこそ、逆に 「その厳しさは正当なものなのか?」 という疑問が湧いてくるのだ。

住み込みという逃げ場の無い環境で、兄弟子から苛めまがいの稽古を付けられる。 それが不屈の精神を作るのだと、元力士は言う。 それに耐えられる者だけが、栄光を掴むのだと。

でも彼らには、耐えられなかった者や別の強化方法を採った者と比較する機会が無いんだよな。 そうした精神的な厳しさを無駄だと廃し、現代スポーツ科学の粋を集めたトレーニングを効率よく行う。 そんな部屋があれば、そしてその部屋の力士たちが全く勝てなければ、彼らの言葉は正しい。 でも俺の知る限り、そんな部屋は無い。

稽古の厳しさは、 「肉体だけでなく精神も鍛えるため」 と言うが、本当にそれだけだろうか。 俺には、先輩への恨みを後輩で晴らしているように思えるのだが。 それは、伝統という名の負の連鎖ではないのか。

そもそも厳しい稽古で精神は鍛えられるのだろうか。 苛めまがいの厳しさを 「なにくそ」 とバネにする者もいるだろう。 こうした悔しさが、勝ったときの喜びを大きくすることは否定しない。 でも、恨みや憎しみを糧にして得た精神力を、正しく鍛えられたものだと言っていいのだろうか。

とまあ、そんなことをね。 もっとも、この時期、朝青龍を甘いと言わない力士はテレビに呼ばれないだろう。 テレビに出ない大多数の力士は、実際どう思っているのかね。 力士になることを途中で諦めた人たちの意見も聞きたいところだな。