2014 05 01

大きいことは良いことだった

久しぶりに上野に行った。 上野は、駅の近くに美術館や博物館が集中していて、梯子するには良い。 しかし、続けて色々見ようとすると体力がついて行かない年齢なのだった。 嗚呼…

バルテュス展

駆け出しの頃は売れなくて、話題作りのためにエロに走ったバルテュス。

その頃の作品も展示されているのだが、見て思うのは、これじゃあ売れないだろうというマイナスの納得。 どの作品も、何故か脚、いや足が手抜き(?)で、エロよりも不自然さの方が気になってしまう。 構図も工夫がなくて、なんかこう 「結局エロなんだろ?」 みたいなやっつけ感が漂っていると言うか。 まあ、俺とバルテュス君とのエロポイントが違うだけなのかもしれないが。

いや、裸婦画像が溢れている今の時代だからこそ、冷静に見てしまうのかもしれないのか。 その当時なら、もう裸婦ってだけでテンション上がってしまって、冷静に見ることなんてできなかったのかもしれない。 そう言えば、中学生ぐらいの子が食い入るように見ていたな。

描く側も同じ。 普段隠されている部分を描くのに一生懸命で、そうじゃない部分はどうでも良かったのかもしれない。 描きたい部分でエネルギーを使い切ってしまったとか。

なんて思ったりもしたのだが、もう少し後の時代の作品を見て、やっぱりあれは描きたいものを描いてないからこそだったんだろうと思い直した。

腕が上がったのもあるだろうが、それだけではない。 腕が上がっても微妙に下手な彼の絵の中で、この日最も上手いと感じたのは大人の女の寝姿の習作なのだが、これはただ 「ああ、昔と比べる上手くなったな」 という印象しかない。 これに対して、宣伝によく使われている 夢見るテレーズ は少女の体の隅々まで気合いを入れて描いているのが伝わってくるし、もう一つの代表作の 美しい日々 からは、巧拙を超えて何か訴えてくるものが確かにあった。 まあ、俺とバルテュス君のエロポイントが同じだけなのかもしれないが。

それがロリではないと思いたい。

栄西と建仁寺展

中学校の美術の時間に、教科書に載っていた風神雷神図屏風を模写したことがある。 その時は、正直言って何が良いのか今一つ判らなかった。 なので実物はどんなものなんだろうと気になっていたのだが、実際に展示を見ると、なるほど国宝だなと確かに納得するものがある。 しかし、展示を通して見た後で印象に残っているのは、海北友松の 雲龍図 と伊藤若冲の 雪梅雄鶏図 の2点。

パンフレットや本で見るのと実物との一番の違いは大きさで、大きさが違うと受ける印象もまるで違ったものになるのだが、雲龍図はこれがもう大変なことに。 とにかくでかい。 8枚の大きな襖いっぱいに描かれた阿吽の2匹の龍の迫力は、パンフレットとは段違い。 なんかもう、これを見ただけで元が取れた気になる。 これ、描いてる時に凄く楽しかったんだろうな。

若冲の印象はまた違った方向で、こちらが際立つのは上手さ。 掛け軸が他にもいくつか並んでいたのだが、そしてそれらの一つ一つは決して悪くない印象だったのだが、若冲の雪梅雄鶏図を見ると霞んでしまう。

なかなか描かない。 描きたいものしか描かない。 そして描き出すと人の都合も考えずに無茶な要求を連発する。 と、若冲はとても困った人だったらしいが、そのぐらいじゃないとあんな絵は描けないのかもしれないな。 描いてるときは、楽しいとか苦しいとか感じなかったんじゃないだろうか。 で、描き終わったら、なんかやたら疲れてるとか。

ついでに キトラ古墳壁画 も見ようと思ったのだが、チケット購入までに50分、その後更に入場までに30分と放送していたのを聞いて諦めた。

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夕陽

マンションのエレベーターを降りると、雲の隙間から差す日の光がいい感じだったのだが、写真に撮ってみると何だかぼんやりした感じなのは、写真が実際の景色に比べて全然小さいからだな。 腕じゃなくて大きさの問題。