2015 05 01

斜視のチビ

国立西洋美術館でやっているグエルチーノ展を見てきた。

先日、ホイッスラー展に行ったら、宗教的なテーマを持たないホイッスラーの絵が ただ絵の具をぶちまけただけ と批判されたと解説されていて、じゃあ宗教的なテーマしか無い時代の絵はどうなんだろうとちょっと気になっていたのだ。 グエルチーノはまさにそんな時代の画家。 パンフレットやポスターには よみがえるバロックの画家 なんて書いてある。

で、実際に見て思うのは、やっぱり宗教縛りは無い方が良いだろうってこと。

絵は上手い。 まあ名の有る画家なんだし当たり前ではあるのだが、人体のバランスも、服や肌の質感も、もう本当に良い感じなのだ。 だが、人の配置が残念な感じなのがちらほらと。 主題を説明したり賛美したりするために配置したのではないかと思うのだが、その結果が、なんかこう 「さーて、来週のサザエさんは」 みたいな雰囲気になってるんだよな。 教会に飾る絵がほとんどだし、宗教全力賛美なのは仕方ないのかもしれないが、絵の下の方でドヤ顔でこっちを見ているおっさんとか、いらないだろ。

おっさんはどうでもいいが、女の人はだいたい良い感じ。 美人っていうのとは違うのだが、なんかみんな綺麗に見えるんだよな。

まあ、良いのは顔と雰囲気だけなんだけど。 体型はだいたい駄目だ。 デブのくせに貧乳ってどうよ。 当時はあれが良いと思っていたのだろうか。 それとも様式縛りで好きに描けず、その分が顔を描くエネルギーになっているのか。

今日見た中から一枚選ぶとしたら、 聖母子と雀 だろうか。 この絵、雀を乗せた手の形が何かに似ていると思ったら、兜指愧破だった。 この世に貫けぬ物無し。

グエルチーノは、依頼を受けて絵を描くとき、等身大の一人の全身を料金の基準にしていたのだそうだ。 全身一人に単価を設定し、二人なら2倍、一人の半身象なら2分の1、という具合に。 これが、後年、若手画家が伸びてきて注文が減ると、こっそり単価を下げていたらしい。 そして下げたことを内緒にするように頼んでいたらしい。 世知辛いのは今も昔も変わらないのか。

驚いたのは、グエルチーノが本名じゃなくて渾名だったこと。 しかもその由来が、 「グエル」 は斜視で 「チーノ」 は禿びだったこと。 チビっ子なんて表現もあるし、ジーコの例もあるし、チーノはまだ許される範囲だと思うけど、グエルは駄目だろう。 組み合わせてしまうとどちらも駄目。 少なくとも現代の倫理基準では。 直訳 「斜視のチビ」 が展覧会のタイトルで良いのだろうか。

ついでに見た常設展が予想外の見応えだった。

質はかなりばらつきがある。 ある程度古い時代の物は、教会なんかの保存状態が良い環境に残っていた物を兎に角集めてきたって感じで、絵画としての質は微妙だったりする。 で、そういうのを眺めて、改めてグエルチーノの上手さに感心したりするのだった。

もちろん良い物もたくさんある。 それらから敢えて選ぶとしたら、次の3つだろうか。

サン=トロぺの港 ポール・シニャック

点描の作品。 色鮮やか。 経年劣化もあって全体的にくすんだ絵が多い中にあるので、余計に鮮やかさが目立つ。

悲しみの聖母 カルロ・ドルチ

布の青の鮮やかさが印象的。 しばらく見ていたのだが、通り過ぎる人の何人かが 「うわ、綺麗」 なんて言ってた。

ラ・シエスタ、スペインの思い出 ギュスターヴ・ドレ

結構大きな絵。 シエスタって、確か昼寝だよな。 そんなタイトルなのに、描かれている人は誰も眠っていない。 昼寝の夢で見た景色だろうか。

館内は割と空いていて、自分のペースでゆっくりと見ることができた。 しかし外に出てみれば凄い人出で、国立博物館の方には行列もできていた。 グエルチーノは不人気らしい。 まあ、知名度も今一つだし、そんなもんか。

おしゃれバス

上野駅前のバス停。 バスが可愛い。