2015 11 20

直せるなら個性じゃない?

何度も繰り返されてきた舌禍がまた… という感じのニュースのその後。 朝日新聞から。

茨城県教育委員の長谷川智恵子氏(71)が18日に開かれた県総合教育会議の席上、障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などと発言したことについて、長谷川氏は19日、撤回するとのコメントを発表した。

コメント(全文)は以下の通り。

この度の私の総合教育会議での発言により、障害のある方やご家族を含め、数多くの方々に多大なる苦痛を与えましたことに、心からお詫びを申し上げますとともに発言を撤回させていただきます。

言葉足らずの部分がありましたが、決して障害のある方を差別する気持ちで述べたものではありません。 反対に、生徒さん達の作品を拝見し、多様な才能をお持ちでいることも理解しており、美術の世界で、もっとお手伝いができるのではないかと思いました。 また、生まれてきた子どもたちの命は全て大切なものであると考えております。

今後は、教育委員として今まで以上に研鑽を積み、よりよい茨城の教育の推進のために微力ながら力を尽くしてまいりたいと考えております。

問題となった 妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか茨城県では減らしていける方向になったらいい も、言ってることは間違ってはいないのだが、言えば叩かれるのはこれまで散々示されてきたとおり。 そんな発言をまたしてしまうのは、きっと71歳という歳のせい。 ちょっとボケてきているのだろう。

で、ボケを後天的な知的障害だとすると、この人を責めることが即ちこの人の発言を肯定する方向という、なんとも素敵な構造になってしまうのだな。

ところで、なんでこうした発言が叩かれるかというと、大抵の障害が改善する見込みが無いからなんだよな。

よく聞く 「障害のある子と付き合っていくのは確かに苦労の連続だが、それでも笑顔に癒される」 なんてDVの共依存と似たようなものだと思うが、一度それを受け入れると決心すると 「自分で決めたのだから」 という責任感が湧いてきて、真面目な人ほど縛られてしまうのだろう。 さらに周囲からその決心を賛美されて、その賛美に答えようとする気持ちにまた縛られるのだ。 それを 「これまでもこれからも自分は幸せなのだ」 と思い込んで自分を保っているのに、その根本を否定されて、せっかく目を逸らしている現実を突きつけられたら、ねえ。

と、実情を何も知らないままに想像してみる。

さて、もっと医学が進歩して、胚の形成の初期に発見できたら大抵の障害は治療可能なんてことになったらどうだろう。 更に進歩して、大人になってからでも知能は改善できるし体の欠損も取り戻せるようになったとしたら。

長谷川さんの発言の真意は判らないけど、 「減らす」 を 「中絶する」 ではなく医学の進歩に期待して 「障害をなんらかの方法で改善・治療して健常者にする」 という意味で言ったのだとしたら。 言葉の選択は間違っているかもしれないが、叩かれるべきはその点だけで、方向性には全然問題無いよな。 まあ、実際はきっと中絶を意図してるんだろうけどさ。

実際に治療できるようになったら、今度はきっと 「早く検査した方がいいよ」 という発言がマタハラ扱いされるんだろうな。

あと、素敵な個性をお持ちの方々は、治療によってその個性を捨てるのだろうか。 周囲の方々も個性を捨てるように勧め、無事個性が失われたら 「良かったね」 なんて喜ぶんだろうか。 ああ、いや 「捨てる」 ってのは違うか。 こうした所でいつも例に出して申し訳ないが、五体不満足が元五体不満足になっても、個性は無くなった訳じゃないよな。 かなり弱まってる雰囲気だけど。