2016 04 22

アフガニスタンとカラヴァッジョ

ちょっとした休日出勤。 ちょっとした残業。 そんな塵が積もって山になっていたので、今日は山崩し。 休暇を取って上野に行ってきた。

黄金のアフガニスタン

まずは東京国立博物館の表慶館でやっている 黄金のアフガニスタン 〜守り抜かれたシルクロードの秘宝〜 へ。

主な展示品は、紀元前後のどちらにもだいたい300年ぐらいの幅の時代の出土品で、ほぼ時代の順に展示されている。 紀元前は、アレクサンダーの東征からギリシャの影響が色濃く、その後徐々にアジアの影響が強くなるような感じ。 文明の十字路というのは、展示を見た後だと、なるほどそういうものかと納得する。

黄金の品々は、主に遊牧民の墓からの出土品。 なかなか良くできていると感心するレベルのものもあるが、技術的にはもっと前の時代のエトルリアやギリシャより劣るように見える。 ただ、デザインの方向性も違うので、ギリシャから劣化しながら伝わったのではなく、影響を受けながらも独自に進化したものなのだろう。

デザインで目立ったのはハート。 装身具は金の他に宝石もたくさん使われているのだが、それらがハート型に加工されていることが多い。 というか、どこかしら必ずハート型がある。 荒木飛呂彦がデザインしたんじゃないかと思う程。

そして女性像。

いろんな女性像が展示されているのだが、ギリシャの影響が強いものは骨太で腰も太くて、そのくせ若干貧乳気味。

時代が新しくなってインドの影響を受けた、或いはインドから持ち込まれたものは、細身ながらもボン・キュッ・ボンを具現化したようなものばかり。 クシャーン朝の夏の都ベグラムでの出土品 マカラの上に立つ女性像 はその典型。

これらを見比べて 「ギリシャとインドなら、迷う余地なくインドだな」 なんて思うのだが、実際にインドに行ったらきっと騙されたと思うのだろう。

象牙なので多分同じ由来だと思うのだが、透かし彫りの装飾板。 透かし彫りの中の人や動物が、最初に見た面に顔があったので、反対側は後頭部なんだろうと思いながら反対側に回ってみたら、そっちも顔だった。 俺にはちょっとした衝撃だったのだが、当時の人たちにはどうだったんだろう。

「両面に顔をみせるのがサービス。 自由に加工できるのに、なぜ現実に縛られる必要があるのか?」

なんて思ってたのかな。

あと、1世紀に既にガラス細工があったんだね。 それも結構高度な加工をされたものが。 ガラスって、何となくだけど、もっと後の時代のイメージだったよ。

カラヴァッジョ

まだ時間があったので、国立西洋美術館でやっている カラヴァッジョ展 へ。

アフガニスタン展でも平日なのに人が多いと思ったが、こっちは更に多かった。 さすがに平日なので、日曜に見たレオナルド・ダ・ヴィンチの 糸巻きの聖母 のように40分待ちの行列なんてことはないけど、看板となっている絵では、人だかりの後ろから絵の前にたどり着くのに数分はかかるレベル。 平日なんだから、展覧会に来てないで仕事してろよ。

レオナルド・ダ・ヴィンチのフォロワーがレオナルデスキなら、カラヴァッジョのフォロワーはカラヴァジェスキ。 どこからどこまでがカラヴァジェスキなのかは議論の余地があるようだが、こちらは技法は取り入れても描く対象の方向性が微妙に違ったりするので、レオナルデスキのような劣化コピー感はあまり無いのだが。

各コーナーの先頭にカラヴァッジョを持ってきて、その後にカラヴァッジェスキの作品が並ぶという展示構成なので、カラヴァジェスキの作品は印象的にも技術的にも差が見えてしまう。 カラヴァッジョとカラヴァジェスキの割合はだいたい1:5ぐらいだったと思うが、今思い返してぱっと浮かんでくるのは、カラヴァッジョの作品ばかり。

ということで、印象に残った作品を挙げておく。

エマオの晩餐

闇の中、一方からの光で人々が部分的に照らし出されるのが印象的な作品。 光が当たっているところが結構細かく描き込まれているのも、光と闇のコントラストを強く感じさせる要因になってるんじゃないかという気がする。

テーブルクロス(?)の縁の模様がちょっと好き。

法悦のマグダラのマリア

闇の中、上からの光に浮かび上がるマリアさん。 古典的な宗教画なら画面の上の方に天使が描かれたりするのだろうが、そういうのが無くても、その辺りに何かが来てるんじゃないかと想像させられる。

しかし、口が半開きでしかも白眼ってのは、ちょっとやり過ぎのような。 当時の人には法悦で納得なのかもしれないが、現代人の目には、飲み会の帰りの電車で爆睡中のOLさんだ。 まあ、それも法悦か。

このような光の使い方・表現方法はカラヴァッジョから始まったそうだが、これらの作品を見ると、カラヴァジェスキが大量に湧いて出るのもわかる気がする。

そんなカラヴァッジョが上記2作品を描いたのは、殺人で逃亡潜伏中の時だそうだ。 闇の中に僅かな光で人を浮かび上がらせるという技法が、逃亡潜伏中の精神状態から生まれ出たものだとするなら、絵画の進歩も皮肉なものだな。

俺の中では エマオの晩餐 が一推しなのだが、人だかりから計る人気は低い方だった。 人が大勢いたのは トカゲに噛まれる少年バッカス の方。 果物を持つ少年 がその次ぐらいか。

これらは技術的には見るべきものがあるが、顔が駄目だ。 なんだかカマっぽいぽっちゃり坊やばかりで、これが俺にはかなりマイナス。 果物の質感は良かったんだけどね。