2016 06 08

不幸は不幸でしか救えないのか

宅間守による大阪教育大学附属池田小学校での小学生無差別殺傷事件から、今日でちょうど15年。 節目の年だからか、NHKのクローズアップ現代では被害者や遺族にインタビューしていた。

パソコンを弄りながら何となく見ていたのでちょっと曖昧だが、誰だったか、インタビューに答える中で 「他にも不幸な人がいることを知って、自分もその人たちの力になれると思って」 なんてことを言ってる人がいた。 ボランティアだったか施設で働いているのだったかはっきりしないが、そうしたところにいる人たちの力になることで自分も救われたと。

同じようなことを、震災の被災者も言ってた気がする。

ありえない仮定だが、仮にあの事件を最後に大きな犯罪も戦争も天災も起きなくて世の中がすっかり平和になったとしたら。 他の不幸な誰かの力になることで救われた人は、今でも救われないままだったのだろうか。

介護生活が始まってからは、定期的に介護者の集いの案内が来る。 他にも苦労している人がいることを知るだけでも、気持ちがちょっと楽になるからってことらしい。 俺の介護生活はかなり楽な方だと思うし、集会は平日の日中ばかりだし、まだ一度も行ったことはないが。

同じ理屈なら、他の不幸な人の力になれたことの前に、まず他に不幸な人がいると知ったことでかなり救われているんだよな。 逆に言うと、他に不幸な人がいないと救われない。

もちろん、そうした人たちの力になれると実感することも大きいだろう。 でも誰かの力になれることが重要なら、その対象は別に不幸な人じゃなくてもいいんだよな。 でも多分そうじゃないのだ。

国外に目を向ければ、村単位の虐殺とか、もっと悲惨な体験をしている人もいる。 でもそっちではなく国内の不幸な人に向いてしまうのは、同じ社会の中じゃないと不幸のレベルが比較し難いからだろうか。

なんだかだんだん嫌な方に行ってる気がするが、中二的に偽善だ何だと責めるつもりはなくて、不幸から救われる糧が他人の不幸ってのは何とかしたいよねって話。 じゃあどうするのかと言われても、何の答えもないんだけどさ。