2017 07 26

否定が肯定

津久井やまゆり園で19人を殺し26人に怪我をさせた植松聖。 日本テレビの取材申し込みに対して彼が返した手紙に、こんなことが書かれていたのだそうだ。

私は意思疎通がとれない人間を安楽死させるべきだと考えております。 重度・重複障害者を養うと莫大なお金と時間が奪われます。

人の心を失っている人間を私は心失者と呼びます。 最低限度の自立ができない人間を支援することは自然の法則に反する行為です。

私は支援をする中で嫌な思いをしたことはありますが、それが仕事でしたので大した負担ではございません。 しかし、3年間勤務することで、彼らが不幸の元である確信を持つことができました。

責任能力の無い人間は、罪を償うことはできません。 しかし、それは罪が軽くなる理由になるはずもなく、心の無い者は即死刑にすべきだと考えております。

言ってることは、そう間違ってる訳でもないんだよな。 余裕がない社会なら重度障害者は排除されるだろうし。 実際、かつての日本もそうだったらしい。 生まれた子供が奇形だったら、取り上げた産婆が殺して死産だったことにしたとか。

建前ってものがあるのでなかなか表には出てこないが、同じように考える人も多いだろう。 そうした人たちと植松君との違いは、実際に行動を起こすかどうか。 その違いも、自分で手を下すのが嫌とか、結果として被る不利益とか、そういった諸々を天秤に乗せた結果がやる/やらないのどちらに傾くかだけで、天秤に乗せるモノはきっと同じなのだ。 むしろ実際に介護施設で働いていた彼の方が、判断材料の重み付けは適切かもしれない。

まあそれはそれとして、俺が注目しているのは、彼に下される判決とその反応。

今の所、彼があのような考え・行動に至ったのは人格障害だからとされている。 そして人格障害には責任能力はあると判断される。 だからきっと彼には実刑が下されるだろう。 殺した人数が19人と死刑の基準を余裕で超えているので、死刑の可能性も高いと思う。

で、実際に死刑になると、それはつまり 「社会に不要な障害者は殺すべき」 という彼の主張を肯定することになるんだよな。 その時、この矛盾がどう取り上げられるのか、或いはスルーされるのか。

そんな注目は不謹慎だとは思うが、気になるものはしょうがない。 あと、24時間テレビで人格障害ばかり集めてパーフェクトヒューマンをやらせたりしたら、24時間テレビってものを見直すかもしれないな。