2017 08 17

奇想の系譜

連日の美術館巡り。 今日は渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアム で ベルギー 奇想の系譜 ボスからマグリット、ヤン・ファーブルまで を見てきた。

去年がボス没後500年だそうで、その辺りをテーマにした展覧会がたくさん開かれている。 これもその一環なんだろう。 アクが強いせいで集中して見ると飽きるのも早いんじゃないかと思っていたのだが、そうでもないな。 程良くインパクトが薄れてきたせいで、作品のテーマみたいなのに目が行くようになってきた。 まあ集中といっても、前に見た バベルの塔 はもう2ヶ月前なんだけどさ。

今日の展示はちょっと切り口が違っていて、同時代の横の広がりではなく、地域を限定してその後の展開を見せるようになっていた。 16世紀のボスとそのフォロワーの絵を集めるのではなく、いやもちろんタイトルの通りそれが中心ではあるのだが、後半はベルギーとその周辺地域のその後、現代までを見せるようになっていた。

前半のボスやブリューゲルの作品は、魔物が皆ちょっと可愛い。 日本の地獄絵が今の俺にはどことなくユーモラスに見えるが、16世紀ベルギーの地獄(?)絵もそんな感じ。 当時の人には、これらは恐ろしいものだったのだろうか。 ただの絵として見るのではなく宗教的な目で見ると、また違った恐ろしさがあるのかもしれないな。 当時の宗教は生活と密着していたし。 あ、でも日本の地獄絵も、子供の頃に見たときは結構怖かったんだよな。 それと同じ感覚だったとすると、地獄があるかもしれない、魔物がいるかもしれない、そう思う気持ちが怖さの源泉なんだろうか。

その後のルーベンスでは、人も動物も魔物も一気に写実的になった。 技法や流行の違いもあるのだろうが、技量の違いも大きいと思う。 しかし上手けりゃ良いってものでもないんだよな。 どっちが上手いかなら迷うことなくルーベンスなのだが、せっかくの上手さが魔物を矮小化してしまっている気がするよ。 これはこれで狙いがあったのかもしれないが。

そうそう、ブリューゲルの時代は七つの大罪や七つの徳をテーマにしたものが多く描かれているのだが、この七つの徳の一つ 「正義」 で描かれている人の行為が拷問だった。 地獄絵で魔物が人にやっていることを、正義では人が人にやっていた。 教会への批判を込めて描いたと思いたいが、きっと本気でこれが正義と思って描いたんだろう。

時代の変化で面白かったのは誘惑。 聖人を誘惑する魔物の図ははるか昔から繰り返し描かれているが、古い時代のものは聖人がまるで誘惑に動じていないのに、19世紀にはかなり危うくなっていた。 変化したのは、誘惑される聖人ではなくて、誘惑する魔物の側。 かつてはいかにも魔物な姿を隠さずに現れて、誘惑どころかむしろ避けたい気分にさせていたのが、近代では帽子と手袋とストッキングだけ身に着けた豊満な女の姿で現れるのだ。 そりゃ心も揺れるだろう。

こんな誘惑にぐらつく姿を描いて教会から咎められたりしなかったのかとちょっと心配になったが、考えてみれば、魅惑的じゃない誘惑に耐えても偉くもなんともないんだよな。 誘惑に耐えるためには、その誘惑に魅力が必要なのだ。 そんな単純なことに19世紀になるまで気付かないとか、これだからクリスチャンは…。 いや、ここは気付いたことを褒めておこう。 ロップスはできるやつだ。

その後のデルヴォーは微妙。 表現したいイメージや不安感みたいなものは伝わってくるし、パッと見たときの雰囲気も良いのだが、人物がなぁ…。 もうちょっとなんとかならなかったのか。

最後が猫のインタビューだった。 インタビューというが、猫はただニャーニャー鳴くだけ。 インタビューの翻訳も貼り付けてあるのだが、猫のセリフは 「ニャー」 だけだった。 展示の中程からニャーニャー鳴く声が聞こえてきて気になっていたのだが、まさか作品とは思わなかったよ。

そんな展覧会の帰り道。

胸の谷間が印象派の人とすれ違って、連れのお嬢さんから 「今の人のおっぱいが気になったんだけど、どう? 気になった?」 と訊かれてしまった。

気にならないはずがない。 そして、訊かれてしまったらもう認めるしかない。

実際、俺のおっぱいレーダーはお嬢さんよりもはるかに早くから反応していたと思う。 歩くリズムにやや遅れて揺れる! なんて感動しつつ、動画で脳内保存もしていたし。 そんな気配を一切悟られないつもりでいたのだが、俺の絶は下手だったのか。 いや、逆か。 気にならないはずがないのに、全く気にする気配がないことが逆に怪しかったのかもしれない。 技術は完璧だったが運用を誤ったということか。