2017 08 18

ほっそい俺が通りますよ

夏休みほぼ全て美術館巡りに費やすという、なかなか贅沢な日々。 今日は国立新美術館に ジャコメッティ展 を見に行ってきた。 彫刻だ。

このジャコメッティという彫刻家を、俺はほとんど知らない。 作品の幾つかは何かで見たことがあるが、現代彫刻っぽいなという程度の感想で、特に印象に残ってはいなかった。 絵でも彫刻でも、俺は 「これこそが理想の美!」 みたいな方向が好きなので、抽象化の果てに現実から遠く離れてしまったようなのはあんまり好きじゃないんだよな。

が、細い人がたくさん並んでるのを見ているうちに、これはこれで有りな気がしてきた。

だんだん小さくなる時代の作品に どうしても小さくなってしまう とか、だんだん細長くなる時代の作品に 高さを保とうとすると細長くなってしまう なんて解説がついているのを、最初は 「販売戦略だろ。 本当にそうなってしまうなら一種の障害じゃないか」 なんて思いながら見ていたのが、バージョン違いの細い女が並ぶ後半にたどり着いた頃には 「何か存在の本質を削り出そうとする内心の葛藤みたいなものがあったんだろう」 なんてことに。 そして最終的には、ミュージアムショップでミニチュアを売ってないかと探すまでに。

そうそう、作風の変化は、まずだんだん小さくなり、キュビズムを経て、だんだん大きくしかし細くなっていくのだが、3次元でキュビズムってどうなんだろうね。 あれは2次元でやるから意味があるんだろ。 細長い彫刻はありだと思う俺だが、キュビズム時代のはないな。 と思っていたら、連れのお嬢さんも同意見だったようで 「キュビズムは黒歴史だよね」 と、更に手厳しい評価を下していた。

とはいえ、あの時代が無ければその後の細長いのも無かったのかもしれないし、ジャコメッティ的にはキュビズムも意味があったのだろう。

バージョン違いの女がたくさん並ぶのは、確か ヴェネツィアの女 だったと思う。 製作順に番号が振られていて、製作の過程でどう変化したかが判るようになっているのだが、並べてある順番が製作順とは違うのでちょっと追いにくい。 なぜ製作順に並べないのか。 そんな不満を胸に番号を追いながら変化を見るのだが、一方的に抽象化が進むってものでもないんだね。 大きな傾向としては削られていく方向なのだが、削ったところを逆に厚くして、また削って、と振動しながら収束していく感じだった。 そうなってしまう気持ちがちょっと判る気がする。

ジャコメッティと交流のあった二人の日本人、哲学の矢内原伊作と文学の宇佐美英治についての展示もあった。 矢内原はモデルにもなっているのだそうだ。 んが、その矢内原をジャコメッティが描いたスケッチが、どう見ても宇佐美だった。 実は二人の区別がついていなかったとか、ずっと名前を間違って覚えていたってことはないよな。 まあ、日本人の顔がみな同じに見えていた可能性は高いと思うが。

あと、彫刻そのものとはちょっと違う評価だが、陰が良かった。 斜め上の何箇所かから照明が当たるために、濃い陰と薄い陰が違う方向に伸びているのが、細長い彫刻をより良い雰囲気に演出していた。 今更だけど、色んな角度から観れるのが彫刻の最大の長所だよな。

ジャコメッティの1

撮影可能エリアに展示されていた胸像。 ちょっと寂しそう。

ジャコメッティの2

同じく、撮影可能エリアに展示されていた全身像。 足がでかい。