2017 12 15

ゴッグリアル

東京都美術館に ゴッホ展 巡りゆく日本の夢 を見に行ってきた。 直前まで、同じ上野にある上野の森美術館の 怖い絵展 と迷ったのだが、待ち時間を聞いて心が決まった。 あちらは2時間待ちだそうだ。 この寒空に誰が2時間も待つのか。 って、そんな人がたくさんいるから2時間待ちなのか。

展覧会は、サブタイトルの通り、ゴッホの日本への傾倒振りを示すための構成になっている。 特に前半は、ゴッホの作品と、その作品を描くにあたって参考にしと思われる浮世絵が並べて展示してあって、具体的にどんな影響を受けたのかが良く判る。 判るのだが。

日本画が影響してるのは確かで、それはもう否定のしようがないぐらい明確に見て取れるのだが、なんか根本的なところで違うんじゃないかって気もしてくる。 ピタッと止めて見せることで逆に時間を想像させる日本画に対して、絵という動かせない媒体の中でなんとか動きや時間というものを表現しようとしているゴッホ、というような感じだろうか。 ちょっと上手く表現できないが、元絵と模写作品を並べて見ると、画材や技法だけではない、絵の背景にある画家と観客との共通理解みたいなものから違うような気がするよ。 花鳥風月。 雪月花。 そんな言葉の奥にある何か。

まあ、江戸後期の人々の感性と現代を生きる俺の感性だって懸け離れているんだろうが、そんな時間的な隔たりよりも地域的な隔たりの方が大きいのだろう。 カリフォルニアロールを見たときの感じが近いかもしれない。 あれは、アメリカンにとっては寿司だが、日本人にとっては寿司に似た何かだからね。 インド人が日本のビーフカレーを見たときも、きっと同じようなことを感じてると思うが、まあどうでもいいか。

ジャポニズムの影が薄くなり日本画との対比もなくなった後半は、変な違和感がなくて安心して観れた。 ゴッホらしい厚塗りや点描モドキは、近くで見るとちょっとメンタルやられてる感じなのに、離れて見ると意外に爽やかなんだよな。 連れのお嬢さんもこっちが好みのようで、たまに塗りが薄いのがあると 「もっともりもりいけるはず」 なんて謎の駄目出ししてた。

俺が一番印象に残っているのは ポプラ林の中の二人 という今日の展示品の中では大きめの作品。 近くから見ても遠くから見てもちょっと病んでる感じがする。

終盤はゴッホに憧れてパリを訪れた日本人の手紙や芳名帳などで、資料的な価値は高いのだろうが展覧会としては微妙。 そのスペースでもっと絵を見たかったな。

それらの資料の中に出てくるのがどれも 「ゴッホ」 ではなくて 「ゴッグ」 だったのが気になって調べてみたら、 Vincent Van Gogh を何語で読むかの違いだった。

当時の資料はフランスを訪問してのものだし、現地表現のゴッグになっているのだろう。 日本でゴッグとして定着せずにゴッホになったのは、政治の影響か。 当時の日本はドイツを参考に新しい国の形を作ろうとしていたし。

せっかくなので、同時開催中の REALISM 現代の写実 - 映像を超えて近代の写実展 も見てきた。 ゴッホ展の半券で入れるし。

現代の写実

写実の対象が幅広い。 写実に付いてまわる 「もう写真でいいのでは?」 という批判を乗り越えるためか、現実にはあり得ないイメージやあり得たかもしれないイメージを写実的技法で表現しているものも多かった。 実在しないものに対して写実もなにもないので、あくまでも技法としての写実だが。 しかしこの方向性だと、いずれ写実そのものが足枷になりそうだな。

写実としてのレベルは、対象によって結構はっきりと差があった。 静物はレベルが高い。 光沢があるものや硬いものの写実性はかなりのもの。 次いで動物。 人物は微妙。 風景は今一つ。 全く同じことを以前行ったホキ美術館でも感じたんだよな。 なのでこれは作家の技術レベルではなく、対象による傾向、難易度の違いなんだろう。

なんて言っておきながら、この日の展示の中で一番印象に残っているのは風景だったりするのだが。

橋本大輔の描く廃工場の景色は、写実のレベルはちょっと落ちるのだが、多分そのせいで、廃工場なのに何かまだ生きているような不思議な感じになっていた。 なんか妙に惹かれて、何度も見返してしまったよ。

近代の写実

これは写実なのか?

というのが素直な感想。 写実っぽいのも数点あったが、現代の写実を見た後ってのが不味かった。 逆の順で見ていたら、もっと違った印象だったかもしれない。