作家の坂東眞砂子が、日経新聞夕刊18日付に寄せたエッセイ。

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。 世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。 動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。 そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。

家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。 タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。 草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。 子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。 自然に還るだけだ。

子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。

私は猫を三匹飼っている。 みんな雌だ。 雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。 残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。 当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。 タヒチでは野良猫はわんさかいる。 これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。

避妊手術を、まず考えた。 しかし、どうも決心がつかない。 獣の雌にとっての 「生」 とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。 その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。

猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。 猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。 だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。 生きるための手段だ。 もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。

飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。 しかし、それは飼い主の都合でもある。 子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。 だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。 私は、これに異を唱えるものではない。

ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。 子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。 避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。 そして、この差の間には、親猫にとっての 「生」 の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。 どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。

愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。 獣にとっての 「生」 とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。 生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の 「生」 にちょっかいを出すのは間違っている。 人は神ではない。 他の生き物の 「生」 に関して、正しいことなぞできるはずはない。 どこかで矛盾や不合理が生じてくる。

人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。 生まれた子を殺す権利もない。 それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。

私は自分の育ててきた猫の 「生」 の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。 もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。

これが、本人の思惑通り、いろいろと言われている。 いろいろと言っても、ほぼ非難だが。

俺としては、坂東さんの主張に肯くところも多い。 多いと言うか、論の出発点は基本的に彼女の言う通りであると思う。 その行き着く先、何もわざわざ殺すこと無いだろうという点で反対だが。 この展開で殺してしまうのは、 「一人殺したら百人殺しても同じ」 に通じる子供っぽい開き直りでしかない。 ま、所詮は作家の文章、どこまで本当なのかは判らないんだけどさ。

それより、俺が気になるのは、 「子猫の殺し方がもっと違ったものだったら?」 ってこと。 彼女は、生まれた子猫を崖下に放り投げることで殺しているのだが、これが 「生まれた子猫を食べた」 だったら、やはり同じ様に非難を浴びただろうか。 「猫の肉は臭いと言われているが、生まれたてなら臭みも無く、柔らかくて美味しい。 タヒチでは猫はご馳走なのだ」 なんてことだったら。